忘れられない恋だった

忘れられない恋だった

彼女と初めて出会ったのは、大学1年の春だった。桜が舞い散るキャンパスの一角、履修登録に並ぶ長い列の中で、彼女は友達と話しながら笑っていた。その笑顔がやけに印象に残って、ただの一目惚れだったはずなのに、今でもあの光景を鮮明に思い出せる。

彼女の名前は美咲。同じ経済学部に所属していたが、学年もクラスも違ったため、最初はただ遠くから眺めるだけだった。共通の友人を通じて、何度か飲み会で顔を合わせるようになり、あるとき突然LINEが届いた。

『履修、あの先生やばくない?笑』──たったそれだけのメッセージだったけれど、まるで心の奥に火がついたような感覚だった。些細なことを話せる関係、それがどれほど嬉しかったか。

LINEのやり取りは日に日に増えていき、次第に二人で食事に行くようになった。サークルの帰りに立ち寄ったカフェ、雨の日に入った古本屋の奥の喫茶店。彼女との時間は、日常の一部になっていった。

告白をしたのは夏の終わり、大学の文化祭準備で遅くまで残っていた日の帰り道だった。『好きなんだと思う』。そう言うと彼女は少し驚いた顔をしたあと、すぐに『私も』と笑った。その笑顔を、俺は一生忘れないだろう。

付き合い始めたばかりの頃は、何をしていても楽しかった。コンビニで買ったアイスを一緒に食べたり、意味もなく手をつないで歩いたり、くだらないことで笑い合ったり。世界は彼女と自分だけで構成されているように思えた。

しかし、関係は時間と共に変化する。彼女は就活を意識するようになり、会う時間も徐々に減っていった。最初は仕方ないと思っていたが、次第に不安が募っていった。

ある日、彼女がなぜかそっけない態度をとった。『最近どうしたの?』と聞いても、『別に』とだけ返される。そんなやり取りが続き、俺の中には“嫌われたのかもしれない”という疑念が育っていった。

夏のある夜、喧嘩になった。些細な誤解がきっかけだったけれど、お互いに溜まっていた不満が爆発したような激しい言い争いになった。彼女は泣きながら『もう無理かも』と言った。

次の日、彼女から『やっぱりちゃんと話そう』とメッセージが来た。俺たちは大学の近くの公園で待ち合わせて、ベンチに座って静かに話し合った。言葉を選びながらも、お互いの気持ちをぶつけ合い、また歩み寄ることができた。

それからの関係は、少しだけ変わった。完璧ではないし、衝突もするけれど、“話し合えばまた近づける”という確信があった。むしろ、前よりも本音で話せるようになった。

大学卒業後、俺は東京で働くことになり、彼女は地元の名古屋に戻る道を選んだ。遠距離になることが決まっていた最後の春休み、彼女は『信じたい』とだけ言った。その言葉がどれほど重かったか、今になってわかる。

最初のうちは毎晩通話をして、週末にはどちらかが新幹線で会いに行った。でも、仕事の忙しさや環境の違いから、次第に距離が生まれていった。気づかないうちに、“会えない日々”に慣れていってしまった。

最後の会話は、意外にも穏やかだった。『ありがとうね、全部』。彼女はそう言って笑っていた。俺は言いたいことをうまく言えず、ただ『うん』と頷くだけだった。

その日から数年が経った今も、時折、彼女のことを思い出す。駅のホーム、夜のコンビニ、雨の匂い──彼女と過ごした景色は、今でもふとした瞬間によみがえる。

あの恋が失敗だったとは思わない。むしろ、あの恋があったからこそ、今の自分があるとさえ思える。誰かを本気で好きになり、ぶつかり合い、別れを経験したことは、人生のかけがえのない財産だ。

今はもう、新しい日々を生きているけれど、それでも“美咲”という名前を聞くだけで、少しだけ胸が締めつけられる。そんな恋が、一つくらいあってもいいと思う。

恋愛は、結果がすべてじゃない。その過程でどれだけ本気になれたか、どれだけ心を動かされたかが、大切なんだと思う。

もし、あの頃の自分に一つだけ言葉をかけられるとしたら──『ちゃんと好きになって、ちゃんと傷ついて、ちゃんと生きろ』。そう伝えるだろう。

そして、次に誰かを好きになったときも、同じように本気で向き合いたい。あのときの彼女に教えてもらったように、丁寧に、真っ直ぐに、心を込めて。

彼女と別れたあと、しばらくは何もする気になれなかった。スマホを見るたびに過去のLINEが目に入り、無意識にSNSを開いては彼女の名前を検索していた。誰かに相談する気にもなれず、ただ時間だけが過ぎていった。

職場では平静を装っていたけれど、帰宅して一人になると胸の中にぽっかりと穴が開いているような感覚に襲われた。テレビの音も、カップ麺の味も、何もかもが無機質に感じられた。

でも、ある日ふと気づいた。彼女との記憶を引きずって生きることは、彼女にも、自分にも失礼なんじゃないかと。あの別れが無駄だったとは思いたくなかったし、自分の人生を前に進める責任があると思った。

それから少しずつ、自分を取り戻すように心がけた。職場の人と積極的に会話をしたり、休日にはカメラを持って散歩に出かけたり、部屋の模様替えをしたりした。そうした小さな変化が、少しずつ気持ちを明るくしてくれた。

半年ほど経った頃、会社の飲み会で知り合った女性がいた。彼女は明るく、会話のテンポもよくて、一緒にいると心が楽になった。最初は恋愛感情などまったくなかったけれど、何度か会ううちにその人柄に惹かれていった。

ある日、その女性と二人で映画を観に行くことになった。上映後のカフェで話していると、彼女がふと『人って、ちゃんと傷ついた後のほうが優しくなれるよね』と笑った。その言葉に、なぜか胸が熱くなった。

前の恋が終わったあと、自分は誰かをまた好きになれるのか不安だった。でもその瞬間、過去の経験が次の誰かへの優しさになるのだと理解できた。恋は続かなかったとしても、無駄なものなんてひとつもなかった。

そして、ある日、意を決してその女性に想いを伝えた。返事は『私も、ずっと待ってた』というものだった。思わず涙が出そうになるのをこらえながら、手を握った。恋をするって、こういうことだったのかもしれないと思った。

今の彼女とは、前の恋愛のように劇的な出来事は少ないけれど、穏やかで心地いい時間を過ごせている。何かを一緒にしているとき、言葉にしなくても通じ合えるような安心感がある。

失恋を経て、人は強くなるのではなく、柔らかくなるのだと思う。傷ついた経験が、人に優しくするきっかけをくれる。あの別れがあったからこそ、今の穏やかな幸せを噛み締めることができる。

恋愛には終わりがある。でも、心に残るものは消えない。誰かを想い、共に過ごし、そして別れを経た時間は、自分の一部として生き続けている。

もし、今つらい恋をしている人がいるなら、どうか自分を責めないでほしい。誰かを真剣に好きになった経験は、必ず未来のどこかであなたを支えてくれる。

そして、また恋をしてほしい。過去の痛みを抱えたままでも構わない。その痛みごと、大切にしてくれる人が、きっと現れるはずだから。

恋愛は、“完璧”を求めるものではなく、“本気”で向き合うことだ。笑って、泣いて、また笑えるように、生きていけばいい。

かつての自分がそうだったように、今を生きる誰かにも、そう伝えたい。そして、私自身も、これからも真っ直ぐに人を愛していけたらと思う。

新しい彼女と付き合い始めてから、気づいたことがある。それは、“恋愛は完成ではなく、更新の連続だ”ということだ。前の恋ではうまくいかなかったことを、今度は繰り返さないように、お互いが工夫しながら歩んでいく。

彼女は些細なことにもよく気づく。俺が少し疲れていると、何も言わずにコーヒーを入れてくれる。落ち込んだときも、無理に励まそうとはせず、ただそばにいてくれる。その優しさに、何度も救われた。

ある日、ふたりで旅行に出かけた。行き先は、以前美咲と行ったことのある場所だった。少しだけ迷ったけれど、今の彼女と過ごすことで、同じ景色がまったく違う色を帯びて見えた。

記憶の中の彼女と、目の前にいる彼女。そのふたつが交差するたびに、自分が過去を乗り越えてきたことを実感した。そして、前の恋を忘れるのではなく、大切な記憶として抱えたまま、次の恋を育てることができると知った。

新しい恋は、穏やかで安定していた。言葉で伝えること、相手を尊重すること、自分の感情を抑え込まないこと──そんな基本的なことを、俺たちは丁寧に積み重ねていった。

記念日には手紙を書き合うようになった。SNSでの祝福よりも、手書きの言葉にこめられた想いが、心に深く染みた。画面の向こうではなく、目の前にいる相手に向けて、まっすぐに気持ちを伝える。そんな習慣が、ふたりの絆を育んでいった。

彼女がふと、『前の恋って、忘れられなくていいと思うよ』と呟いたとき、俺は驚いた。彼女は、自分の過去を責めたりしなかった。むしろ、『だから今のあなたが優しいんでしょ』と微笑んだ。

その瞬間、自分の中で何かが溶けた。誰かを愛した記憶を持っていることが、罪ではないことをようやく認められた。過去があるからこそ、今の愛がある。そんなことを、彼女の存在が教えてくれた。

時折、夜道を歩きながら、ふと思う。もしあのとき美咲と別れていなかったら、今の幸せには出会えなかったのかもしれない。あの痛みがあったからこそ、人を思う強さも、優しさも身についた。

恋愛は、誰かと出会い、別れ、また出会う。喜びと悲しみをくり返す中で、人は成長していく。過去を否定せずに、今を大切にすること。それが本当の意味で“前を向く”ということなのだと思う。

今、目の前にいる彼女と過ごす日々は、何気ないけれど確かな幸せだ。朝のコーヒー、駅までの道、週末のスーパー。小さな日常のすべてが、愛おしい。

人を愛するということは、相手に何かを与えるだけでなく、自分をも見つめ直すこと。相手のために自分を変えることを恐れずに、素直でいること。それができるようになったのは、前の恋があったからこそだ。

誰かと別れることは終わりではなく、新しい自分に出会うための始まりかもしれない。過去の恋を大切に思えるようになったとき、人は本当に前に進めるのだと思う。

そして今、心から思う。恋愛は“過去を否定しない未来への扉”だ。誰かを愛した経験は、自分を豊かにし、次の誰かをもっと大切にする力をくれる。

もうすぐ、彼女にプロポーズをする予定だ。かつて失ったものが、今こうして形を変えて自分のもとに戻ってきた気がする。今度こそ、失いたくないと思っている。

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